詩に関すること(その1)

 自分にとって、詩とは白紙の街で生きるような行為であり、空白を常に前にして向かう、透明な悲しみのようなものである。そういうことを最近思った。誰もが、白紙の崖で倒れながら、けれども倒れずにたたかっている。そのような光景が、詩の原点のように思われる。


 詩の自由とは、まず始めに「何でも書ける」という制度の中で、「何も書けない」ということを認識した時に始まる。自由の詩とは、その意味で白紙であるし、マラルメのそれの提示は比喩の森で遭難した詩人たちに最も重要な何かを提示するだろう。
 「詩は、本質的に白紙である」、そういう断言も時には必要だろう。だが、その意味をあやまてば、詩は現代美術の方向へ逃げる可能性がある。たとえば、白紙を展示して、「poem」と名付けるような行為が街に溢れる可能性がある。
 詩は、何を書いても白紙であるし、その白紙のありようを様々な手法で蟻のような文字に込めることが、すなわち「技法」として呼ばれるべきものである。だが、一般的な意味での詩の技法は谷川俊太郎の、『minimal』のように削ぎ落とした詩と同様に、ページに文字を氾濫させる吉増剛造の詩も共に「白紙」なのである。
 「何も書けない」という認識は、ある詩人たちにとっては、反論を呼ぶだろう。その主たるものとして、「(自分たちは)書きたいことがあって、書いている」というありふれた創作動機があるように思われる。
 確かに、「書きたいこと」はあるだろうし、それはつまり「伝えたいこと」があるということに変換されてもいいだろう。そうであれば、「伝えたいこと」とは、つまり「主張」であり、それはある意味、「詩である必要がないもの」として立ち上がる。それが、詩として表現される時、「行分け」や「余白」や「リズム」など様々なシステム によって作られている場合が多い。
 「詩は表現ではない」と詩人の入沢康夫は語っている。ここでおさえるべきことは、詩は決して「伝えたいことを述べるための一形式」ではないという認識である。「詩は、思想と切り離されるべきだ」という時の詩とは、およそ「非伝達表現」としての意味を持っている。
繰り返しになるが、「ただ白紙がそこにある」という状態の持続が詩の本質であり、それ以外はあくまで詩とは直接関わりがなく、「何を表現したか」よりも本来「どのように表現したか」が問われるべきなのである。
 そうして、白紙とは「何も書いていない」ことによって、「何でも書かれている」という世界を切り開くものである。城戸朱理のいう「海洋性」も「潜在性」も手垢のついた詩表現(とされているもの)をもう一度原点に戻すことを提示しているように思われる。
 吉本隆明の提示した「無」という言葉は、書くことなんて何もないのに書いている若い詩人たちが、別のかたちで詩の本質へと戻ろうとする過程への批評に変換された時に初めて大きな意味を持つ。「無」であることの意味を、「白紙」というキ−ワ−ドから読み解くと新たな視点が生まれるように思われる。
 全ての表現が、人間の本質をどこかであぶり出しているとしたら、白紙は人間が対峙する自由の問題を限りなく内包する宇宙のように思われる。あるいは、世界そのものでもあるかもしれない。
 「自由詩」という言葉が、「口語自由詩」としてではなく、自由そのものでもあるような白紙の様々なバリエーションの提示として使われることによって、詩は新たな世界へと到達するだろう。あるいは、そこは最も原始的な世界でもあるかもしれない。