詩に関すること(その2)

前回の更新から随分と時間が経った。最近は、出張や応援など仕事で忙しく、人とも詩ともうまく付き合えていないような気がする。そんな中で、最近は自分の中での詩をもう一度じっくり考え直すいい機会のようにも考えている。
間もなく刊行されるであろう最新詩集『白紙の街の歌』(思潮社)は、僕が詩について考えてきたことをまとめたような作品集である。8つのパートから成り立つこの詩集は、はじめはこのブログでも書いてきたように「箱」から始まる。ただし、この詩集は「箱」だけの詩集ではない。もともとの詩集のタイトルは「犬と箱」であったが、大幅に改稿し、全く新たな詩篇を書き加えた。
村上昭夫から「ねずみ」や「こおろぎ」などの詩篇を参考にさせてもらったり、中原中也立原道造谷川俊太郎などの詩篇からもインスピレーションを受けた。また、画家の松井冬子の作品群からは今を生きる女性の痛みを表現化することを学び、それを取り込んだ。他にも、映画や他の詩人の作品が引用ではなく、イメージを変容させて現れている。
僕自身が考えるのは、様々なジャンルの様々な表現が混じり合い、その組み合わせによって新たな感覚が受け取る者の中に生じることである。新しいものはなく、あくまで組み合わせの妙があるだけだと僕はある詩誌において述べたが、その考えはずっと変わっていない。僕が他ジャンルと積極的にコラボレーションを試みるのはそのためであり、それによってしか新たな創造も胸躍る感動もないように思われる。
今回の詩集で心がけたのは、余白を多く取ることと詩的な表現ではなくストレートな言葉で詩を表現することだった。散文はおしゃべりだが、本当に言いたいことは見えない。詩はどちらかといえばうつむきがちで無口だが、時にこの世界の秘密のような恐るべき真実を語ることがある。僕は、そこに近づきたかった。そこを目指したが、その達成は読者を待つことになるだろう。作者はあくまで場所を作るだけだ。詩を感じるのは、あくまで読者なのである。
この詩集以後、正直たくさんの詩篇を書いてはいるが、これといった手応えを感じない。僕は、おそらく今度の詩集を作ることによって、ひとつ大きな山を越えたのだろう。山の頂上からは川と草原と森が見える。人が住んでいそうな街もある。だが、見上げると空と雲しかない。空と雲の向こうには宇宙が広がっている。そうして、その宇宙とつながり合えたような気持ちがしている。そうなると、地上から自分がふっといなくなり、地上の出来事が死後見ている夢のようにも思えてくる。
本当に詩を書くということは不思議な体験である。場所や時代を超えて、宇宙を超えてやがて永遠と呼ばれうる巨大な時間の内部へと取り込まれるはかない存在の生命。その取り込まれる先の永遠が晴れやかであることを願いつつ、今は少し休みながら詩と付き合っていきたい。そして、その詩を通して、いろいろな人たちとつながっていければいいなと思う。