あなたは私を知らない/私はあなたを知らない
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2週間前に「いやだなあ」と思う出来事があった。
正直、ムカっとした。
そこには、「とても」という副詞がつく。
内容は、ここには書かないが、多くの人からすると「大したことじゃない」「くだらない」と言われそうなことである。
ただ、人間の「こころ」(あるかど〜か知らないけれど)というものは不思議なもので、他者にとって取るに足らないこと程、自分にとって重要なことのように思われる。
そこには、「とても」という副詞がつく。
さすがに30も過ぎると、社会の中で生きれば生きる程「プライド」は靴のように磨り減る。
そういう意味では、今はほとんどはだしだ。
但し、(こういう言い方は嫌だが)最低限の「自分らしさ」というものがどうしても捨て切れない。
詩を書く時は、そういう「自分らしさ」を消そうと試みるが、やはり最後までそれは残る。
批評家の小林秀雄は「表現というのは自分の個性と戦うこと」と述べていたが、その言葉が自分の生き方を灯台のように照らしている。
話を戻すと、その「自分らしさ」というのが実に厄介で、余計に僕をゆ〜うつにさせるのである。
簡単に要約すれば、それは「自己嫌悪」というものなのかもしれない。
しかし、そんなに単純じゃないと思う自分がいるから、ややこしいのである。
結局、自らの抜け出せない「癖」のようなものと日夜闘い続けることが生きることなのかもしれず、表現者以前に生活者であらねばならないことは家族にしっかりと教育されたおかげで何とか生き延びている。
だが、どうしても他者との衝突はやって来る。
その時に、僕の僕らしさと相手の相手らしさがぶつかる。
今年は、そういうことが何度かあった。
自分の非だけを追求すれば落ち込むし、相手の非だけを追求すれば最終的に自分がより深く傷つくことになる。
「人間が嫌いだ」とカラオケボックスで叫び続けていれば、いずれ消えるものなのかなと思ったりもするし、それ以上の時間を「人間が大好きだ」と叫び続ける必要があるようにも思う。
ボブ・ディランの言葉にこういうものがある。
「君の立場に立てば、君が正しい。僕の立場に立てば、僕が正しい」
その言葉で何とか「自分らしさ」をキープ出来ている。
すげえぜ、ボブ・ディラン。
また、「単純な相互理解などこの世界にはない」と生誕30年を記念して僕は何となく気付き始めている。
僕が信頼する友達はそのことをお互いに知っていて、それだから何かあっても許し合える関係を保てているのだと思う。
逆に、深く話も聞かずに一方的に「お前の気持ちが分かる」という人とは基本的に付き合えない。
だから、集会や宗教とも全く縁がない。
大学闘争の時代に生きていたら、本当に孤立していただろう。
「こころ」とは何てわがままで窮屈な場所なのだろうと思う。
「僕は僕自身を語る程に僕を知らない」とここで考えてみたりする。
そう考えると、「自分らしさ」も絶対的なものではなく、変化の中の暫定的な「制約」と考えることが出来るだろう。
だから、たぶんその僕の「不安定さ」が「安定さ」を呼ぶこともあると考える。
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さて、以上のようなことを考えたのは渡辺玄英さんの新詩集『破れた世界と啼くカナリア』(思潮社)を読んでからだ。
ぼくはきみをきみはセカイをセカイはぼくを裏切るだろう
(だろうか(わからない
わからないけれど
きみが世界といったときに ぼくはそこに含まれていない
ぼくがセカイといったときに きみはそこに含まれていない
ぼくらわたしらの中にこんなにもたくさんの星が瞬き(花火があがり
だけどひとつも名前なんて分からない
名前を呼んでくださいぼくの(きみの
ただしかったりただしくなかったり、さまざまな名前で
呼ばれるたびに(どれも間違っていてどれも正しくて
ぼくらわたしらはいつか出会い分かりあえる
でもそれはうそです ほんとうだろうけれど やっぱりうそです
「星と花火と(光のゆーれい」
ちきうが見える(いくつにも重なって
つらいことは何?
ひとりできみはどこに行くの?
うつろな眼差しでセカイはきみをみつめています
(きみはぼくですか
きみはセカイをうつろな眼差しでみつめています
(ぼくはきみですか
「声が空から降ってくる」
この世界に生きる人間が不安定であるように、この世界そのものも不安定だ。
そのことだけはどんな「絶望(と思われるもの)」の前でも忘れないようにしておきたい。
その不安定さが世界に「破れ目」を作り、そこに「希望(と思われるもの)」を出現させることもあるだろう。
それにしても人間とは厄介だ。
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